レトルト工房 ~錬金術師の仕事場~

個人サークル「レトルト工房」のブログです。現代科学の最後尾を独走中です。

『悟浄出世』を読む。

「心を深く潜ませて自然をごらんなさい。雲、空、風、雪、うす碧い氷、紅藻の揺れ、夜水中でこまかくきらめく珪藻類の光、鸚鵡貝の螺旋、紫水晶の結晶、柘榴石の紅、螢石の青。なんと美しくそれらが自然の秘密を語っているように見えることでしょう。」

「悟浄は、この庵室に一月ばかり滞在した。その間、渠も彼らとともに自然詩人となって宇宙の調和を讃え、その最奥の生命に同化することを願うた。自分にとって場違いであるとは感じながらも、彼らの静かな幸福に惹かれたためである。」

「悟浄は、自分を取って喰おうとした鯰の妖怪の逞しさと、水に溶け去った少年の美しさとを、並べて考えながら、蒲衣子のもとを辞した。」

悟浄出世中島敦


    悟浄は蒲衣子の庵室の自然(宇宙)と同化しようとする思想に魅了された。しかし違和感も覚えて一ヶ月で去った。 悟浄の持った違和感(場違い感)とは何だろうか?当たり前のように他の生き物を貪り食っている鯰の妖怪も、自然との同化を求めて水に溶け去った少年も、どちらも自然のシステムに対する疑問を持っていない。しかし悟浄は自然のシステム自体を「何故」と問う。この「何故」を考えることへの批判が何度も他者から悟浄へ向けられる。

結局悟浄は「身の程知らぬ『何故』」を考える癖は治らないものの、傍観者から当事者へ行動を起こし始める。

    当事者の視点を持つことは重要だが、傍観者(第三者)の視点を持ってしまうことは、人間の他の生物とは異なる特徴だと思う。人間は、自然のシステムに違和感を覚え、そこから距離を取るために物理的にも思想的にも人工的な環境を構築したのではないだろうか。悟浄の思索の遍歴は、本人の望むところとは関係無く、妖怪から人間に変容するための過程なのだと思う。