レトルト工房 ~錬金術師の仕事場~

個人サークル「レトルト工房」のブログです。現代科学の最後尾を独走中です。

一日一星 No.0063「窓」『宇宙のあいさつ』

一読して大貫妙子の「メトロポリタン美術館」を思い出した。メトロポリタンは絵、こちらはテレビの中に閉じ込められるのだが。
作中に「ブラウン管」という表現があるが、これはこのまま残るのだろうか?星氏は作品に普遍性を持たせるため、「電話のダイヤルを回す」を「電話をかける」に直したりしていたそうだが。
日本のSFはアメリカより10年程遅れて始まったため、ちょうどテレビの普及期と重なったらしい。星作品にはテレビがよく出てくるが、当時のニューメディアであるテレビの魅力や近未来感(お茶の間に現れたSFガジェット的違和感も含む)が、どの作品にも表れている。水木しげるの「テレビくん」も同時期の作品ではないだろうか。
作中に登場する悪魔(と人間が呼ぶこともある、何らかの役割を任された存在)が、自分は好きでこんなことをやっているのではなく、社会に必要だから存在しているのだと言う。つまり必要悪だ。反社会的勢力がなくならないのも、それがないと社会が回らないからなくならないのだろう。
主人公の女性はいきなり土台になる側にまわされてしまったが、この女性が栄光を浴びる座につく可能性はなかったのだろうか?一回くらいチャンスがあってもいいようなものだが。それとも、謎の放送を見た時点で土台要員認定されていたのだろうか。

一日一星 No.0062「景品」『宇宙のあいさつ』

現代(2021年)のポイント制度を思わせる話。買い物のおまけでポイントをもらうのではなく、ポイントのおまけで商品をもらう世界。確かにポイントの有効期限が切れる前に、大して欲しくもない物を買ってしまうことがある。

本屋が無くなっている、というのは現実感がある。以前は普通に街にあった本屋が、今ではなかなか見つからない。本はアマゾンで電子書籍を買うのが普通になっている。

何故「ヘミングウェイ全集」というチョイスなのか?何か理由があるのかも知れないが、私にはわからない。有名な作家であるという以上の理由はないのかも知れない。星新一ヘミングウェイの影響ってあるだろうか?

一日一星 No.0061「タイムボックス」『宇宙のあいさつ』

SF作品でタイムマシンはよくあるが、「タイムボックス」は初めて聞いた。
画期的な発明なのだが、現実に利用しようとするとコスト的に見合わない。こういう発明はよくありそう。画期的なエネルギーなのだが石油と比べるとコストが高くて普及しないという例はいくつもある。
サイコロの目が予め見た通りに出るというのは奇妙な感じ。偶然の結果が必然的に現れるということなのだろうか?

一日一星 No.0060「治療」『宇宙のあいさつ』

劣等感に悩む人類を救うために、「標準人間」という平均的人間のモデルを作り、幸福検定をする話。作中では電子頭脳が出てきたりとハードウェア寄りのシステムだが、現代(2021年)ではビッグデータとAIでソフトウェア的に実現しそうだ。
標準人間と会話することで劣等感を解消した人は努力をしなくなり、人類のレベルがどんどん落ちていくという展開だが、実際はどうだろうか?現代で言うと偏差値がこれに近いが、平均を超えたことに安心して成長が止まる人もいれば、平均以下の人が奮起して平均を超えることもあるのではないだろうか?結局のところ人類のレベルはそれほど高くもならず、かといってどんどん落ちていくわけでもないほどほどのところに落ち着くのではないかと思う。

一日一星 No.0059「反応」『宇宙のあいさつ』

この作品では「文化」と言う言葉は出てくるが、「文明」という言葉は出てこない。「文化」というと必ずしも合理的、普遍的ではない特定の時期や地域固有の知の蓄積、「文明」は合理性や普遍性を持った知の蓄積という感じがするが、この作品では異星人にも伝えられる普遍性を持った知の蓄積を「文化」と表現している。あまりその辺は厳密に区別していないのだろうか。
この宇宙人は高度な文化を持つ宇宙人のようだが、異星人に自分達の文化を伝えるつもりなら、普通そう申し出る前にその異星人がどんな性質を持っているか調べるのではないだろうか?自分達の正体と目的を明かしてから相手の検査を始めるというのは手順が逆なのではないかと思う。また、検査も結構雑で、嘘発見器のような機械が質問に対する反応とは別な反応を読み取っても、質問に対する反応だと解釈してしまっている。なんとも残念な宇宙人で、文化を伝えて貰えなかったのは残念でもあるが、伝えて貰えなくて良かったような気もする。

一日一星 No.0058「けじめ」『だれかさんの悪夢』

社長も社員もけじめがつき過ぎていて面白い。それぞれの役割で言っていることはおかしくないのだが、それぞれの話が全く独立していて混じり合わない。何故これを読んでいて面白かったり奇異に感じてしまったりするのか?
親が担任するクラスの生徒にその人の子供がなったり、親が監督する球団の選手に子供がなったりするのはひどく気まずそうに思える。何故なのか?同一人物が、社会的役割に応じて様々な顔を持っているので、いつもと違う顔を向けられると関係に危機が生じるからではないのか?夫婦に子供が生まれると、お互いを「お父さん」、「お母さん」と呼んだりすることが多いが、あれも演じる役割を省力化したいという現れなのではないか?

一日一星 No.0057「こわいおじさん」『だれかさんの悪夢』

「こわいおじさん」的存在が必要とされていても、なかなかその役割を引き受ける人がいない。これは、個人の資質の問題ではなくて、「こわいおじさん」を支える仕組みが崩壊しているからなのではないかと思う。こわい上司を演じようにも、パワハラ上司扱いされるのではそう強くも出られない、という問題と同じだ。今年(2020年)流行った『鬼滅の刃』の主人公のセリフ「長男だから耐えられた」は家父長制が生きていた時代だから成り立つが、現代では時代錯誤なセリフに聞こえる。しかしそのセリフが小学生の間で流行っている。これは、今では無くなってしまった権威が代わりのものを見つけられずに思いがけない形で現れてしまったということなのではないだろうか?
ところでこの会社の派遣システム、電話の指示で行ってみたら自分の子供だったらどうするのだろうか?住んでいる場所が同じならバッティングする可能性は高いと思うのだが、気まずいことになりそうな気がする。