一日一星 No.0042「気まぐれな星」『宇宙のあいさつ』
星新一の作品に出てくる宇宙は「暗黒」で、「星が凍りついている」という描写がしばしば出てくる。一昔前の宇宙は紺色や暗い青で、星が瞬いていた。これはおそらく地球から見上げた夜空をイメージしているから青っぽく見え、大気を通して見るから瞬いて見えるのだと思う。星新一の宇宙は夜空のイメージから、宇宙空間から眺めた宇宙に変わっている。宇宙は夜空とは違って暗黒であり、星は大気が無いので瞬かない。この宇宙観の変化は、米ソの宇宙開発競争によって一般へも宇宙に関する知識が広がってきたからだろうか。
最初、タイトルの「気まぐれな星」というのは、地球人が訪れた惑星のことかと思っていたが、読み終わってみると地球のことだった。星新一には『きまぐれ星のメモ』というエッセイ集があるが、字面が似ているだけで特に関係無いようだ。
この作品のようなファーストコンタクトでまんまと騙される話は他にもいくつかあるので、それらと比較して読むと色々発見がありそうに思う。
若い言語学者は最初文句を言っていたが、ころっと騙されて星に残ってしまった。年配の艇長は終始事務的に仕事をこなして帰ってしまったが、もしかすると過去に似たような事例があったのを知っていたり、実際に経験したりしていたのかも知れない。
「気まぐれな星」というタイトル通り、気まぐれに他の惑星の生物を助けたり助けなかったりしているのを娯楽(本人達は慈善のつもりだが)と表現しているのは現実の慈善事業に対する皮肉だろう。「やらない善よりやる偽善」と言うが、その偽善がはたして役にたっているのか、この話のように善意の押し付けを受ける方は有難迷惑に思っているのではないか、よく考え、実行結果をフィードバックする必要があると思う(PDCAサイクルというのがあるが、あれはどの程度普及しているのだろうか)。
あと、他星の生物を助ける基準が自分達に似ているかどうかで決まるというのも、ありがちだがおかしな話だ。また、異質過ぎて意思疎通ができない相手を助けるべきかどうかというのも、そもそもこちら側の価値観で助けてしまって相手のためになるかどうかわからない。そう考えると関わらないのが一番ましなような感じがする。
一日一星 No.0040「危機」『宇宙のあいさつ』
危機というのは未然に防いでしまうと、助けてもらってもありがたみが感じられない。それどころか、危機に瀕していたことも気づかないまま、代わり映えの無い日常として過ぎ去ってしまう。「鼓腹撃壌」という言葉があるが、「帝力何ぞ我に有らんや。」と言っていられる時代は、治世がうまく行っている時代なのだろう。宗教も、「苦しいときの神頼み」のように、苦しいときには神を意識するが、うまく行っているときには宗教なんて自分には関係ないと思ってしまいがちだ。しかしそんなときにも、自分の知らないうちに何らかの御利益を被っているのかも知れない。
一日一星 No.0037「願望」『宇宙のあいさつ』
願い事を叶える系の作品。このタイプの作品の叶えてやる側は何が多いのか?悪魔が多そうだが、天使とか妖精とかもありそうだ。この作品では狐だが。
これと似た作品に「質問と指示」がある。
「もういい。どこかへ行ってしまってくれ」という指示に従って、妖精はどこかへ行ってしまった。狐は「思い出させてくれ」という願いを叶えた。どちらもつまらないことでチャンスを失ってしまったが、これらの話が特に何かの教訓になったりしないところが逆に奥が深い。
ところで、エス氏は「思い出させてくれ」と言う前に、「まあ、待ってくれ」と言っている。狐はこの願いも叶えているので、エス氏の願いを2回叶えてあげたことになる。これは特別サービスなのだろうか?
一日一星 No.0036「宇宙のあいさつ」『宇宙のあいさつ』
作品の内容とは関係ないが、「あざやかな赤い色のボタンが、軽く押された。」のような英文翻訳調の言い回しは、この作品が書かれた時は普通の表現だったのだろうか(普通の日本語の表現では「ボタンを押した」だと思う)?海外文学作品の影響だろうか?何故受動態にしたのか?「乗組員は」といった主語(日本語にヨーロッパ語の文法でいう主語があるのかという議論もあるが)を使いたくなかったのか?星新一の作品には「エヌ氏」のような記号的な人名がよく出てくるが、そういう主語に対する独特な感覚(忌避感?抽象化性向?)があるような気がする。
この作品は何故「宇宙のあいさつ」というタイトルなのか。誰もあいさつしていないのだが。と思ったが、あいさつが「仕返し」という意味(「御礼参り」的な)なら納得できる。核ミサイルを打ち込んでおいて「いったい、なんで早く教えてくれなかったんだ。ひどいじゃないか」もないものだ。壮年期の地球人が、老獪な異星人に返り討ちにされたということなのだろう。